(この戦いで諸隊が敗北していたら、明治維新の姿は大きく変わっていたといえる。)
2、長州藩の内乱であった。高杉晋作・伊藤博文・山県有朋たちのクーデターであった。
(今から149年前の、元治2年(1865年)1月6日〜1月19日の事件。)
3、戦いの原因は、 幕末の年表
・1853年6月、アメリカ艦隊ペリーが浦賀に来航し、開国か攘夷かで国内が騒然となる
・1858年 安政の大獄始まる(吉田松陰処刑される)
・1863年6月、高杉晋作が奇兵隊を結成する(外国船打ち払いで打撃を受けたため)
・1864年7月、京都御所:禁門の変起こる(長州藩が会津・薩摩兵に敗れる)
・ 〃 7月、第1次長州征伐の命が下る(長州藩が禁門の変で朝敵となる)
・ 〃 8月、 米・英・仏・蘭四か国連合艦隊の報復で下関前田砲台が占領される
・ 〃 9月、 長州藩の政権が、改革派(正義党)から保守派(俗論党)に代る
・ 〃 11月、長州藩は幕府に謝罪して、家老の益田・国司・福原を自刃させる。
・ 〃 12月、逃亡していた高杉晋作が長府功山寺で決起する(遊撃隊など80人)
・ 〃 12月、萩政府は、諸隊追討令を発し改革派の弾圧を強め、家老清水を切腹
・ 〃 12月28日、萩政府の諸隊鎮静軍1200名が明木まで進軍
・1865年1月6日夜半、諸隊が絵堂の萩政府軍本陣を夜襲し、大田・絵堂戦役始まる
4、長州藩の政府軍(侍の隊)と諸隊(下級武士や農民の隊)が戦い、庶民が武士に勝利した。
(新しく西洋式の訓練や銃器を具えていた諸隊が勝利)
5、民衆の思いは。
奇兵隊などの諸隊に対し、維新を願う農民・町民が協力した。
・『正俗戦争記』には、「大田百姓并近辺の男女小児ニ至迄、夫々向々の手伝致ス事、実に難尽筆紙ニ候」とあり、
子どもから大人まで、男女を問わず協力したことが分かる。
・秋吉では、諸隊進軍(8日か)の折り、近隣の農民(目畑からも)が炊き出しを行っている。
・平原では、諸隊見回り兵が、梅木が通行の邪魔になるので伐採しようとしたが止めた。
・山口・小郡の庄屋達(吉富、林)の金銭・食糧の支援があり、人夫1000人余りが大田に来るが、
下秋・温湯の伝承では、民家に宿泊させて、家主は野外に寝たと伝う。
6、明治新政府は、鎖国の徳川時代からわずか10数年でアジア唯一の近代国家をつくりあげたが、
大田・絵堂戦に参加した若き人達がこの原動力となった。
(伊藤博文、山縣有朋、御堀耕助、山田顕義、品川弥次郎、野村靖、三浦悟楼、堀真五郎、佐々木男也、等々)
大田・絵堂戦役は、たまたまこの地域で起こった事件であったが、我々先祖の協力があって新しい時代が
スタートしたことを、「みとう⇒みね」の誇りとして、子孫に語り継ぐ必要があろう。
嘉永6年(1853)6月、ペリー率いる米艦隊が浦賀に来航して以来、国内は開国か攘夷かで騒然となり、日米修好通商条約の締結や将軍後継問題などで、安政の大獄と呼ばれる粛正が続き、やがて大老井伊直弼が桜田門外で暗殺されるなど、不穏な政情となった。
勤王か佐幕かで、国の政治は混沌とし、もはや幕府のみでは政局が乗り切れず、雄藩が政治に参画するようになった。政局の中心も京都に移り、諸藩や脱藩浪士が割拠するありさまとなった。
文久3年(1863)5月10日、幕府はやむなく攘夷決行を命じたが、長州藩は率先して下関海峡の外国船を砲撃し、過激な攘夷を繰り返した。光明天皇が穏健派の公家の進言により、革新派の公家七卿や過激な長州藩を京都から追放するという8月18日の政変が起こり、京都守護職(松平容保)や新撰組による過激派浪士の取り締まりが強化されていった。
元治元年(1864)6月には、池田屋で長州藩士などが暗殺され、京都御所の警備を解任されていた長州藩は、藩勢の挽回を図るべく京都に進軍するも、禁門の変(蛤御門の変)で薩摩・会津軍に敗退し、朝敵の汚名を被ることとなった。
さらに8月には、下関海峡で米・英・仏・蘭四か国艦隊から報復攻撃を受けて前田砲台が占拠され、幕府は長州征討の命を発して征長軍が広島まで迫り、長州藩は内外共に危機的難局を迎えた。
長州藩では、これまで藩政を担っていた革新派(正義派)に代って、保守派(俗論派)が政権を握り、幕府に謝罪恭順として益田・国司・福原三家老の切腹や革新派の弾圧を強化していった。
元治元年(1864)12月16日、筑前の野村望東尼山荘に逃亡していた高杉晋作は、ついに長府功山寺の五卿の前でクーデターを決起した。この時同調しなかった奇兵隊など諸隊も、藩からの解散命令や諸隊追討令を受け、23日には家老清水清太郎が切腹となるなど、ますます弾圧が強化されるのに反発した。26日には諸隊鎮静軍が萩を出立した。これを受けて諸隊はついに一戦を覚悟し、元治2年(1865)正月6日夜半、赤間関街道中道筋を粛々と進軍し、絵堂の萩政府軍本陣を夜襲して開戦の火蓋を切った。
大田・絵堂戦役は、正月16日までの10日間の戦いであったが、近代兵器を装備した諸隊が、民衆の支援を得て勝利し、長州藩は再び尊王攘夷を掲げて武備恭順とし、後には倒幕の道を歩むこととなった。
大田・絵堂戦役は、逆転しかけた歴史の歯車を危機一髪で回天させた、明治維新先駆けの戦いとなり、近代国家の夜明けを迎える意義ある戦いであった。
大田・絵堂戦前夜−諸隊の進軍と萩政府の動き−
長府から伊佐市へ
元治元年12月16日、諸隊は御楯隊を残して伊佐への転陣を決めた。しかし、人夫の不足で寺へ止宿し17日長府を出発。奇兵・八幡・南園隊は三条西季知・四条隆謌の二卿を護衛して吉田宿に2泊。19日に伊佐に到着した。膺懲隊は四郎ケ原に宿陣。
伊佐市では、大庄屋格で酒屋池田猪右衛門邸を本陣とし、二卿は表の方へ、隊員は裏の部屋に宿陣した。二卿の接待役に隣家の古浅おとく13歳が抜擢された。山県狂介は伊佐村庄屋を勤めていた村上助右衛門邸(元野村酒場:現在本陣跡の標柱を設置)、陣場奉行の天宮慎太郎は西原邸(元小竹菓子店)に止宿し、鉄屋(中元医院付近)から正隆寺一帯が諸隊の宿営地となった。武器弾薬は紙屋(西田材木)の裏倉庫に置き、演習は徳定で行った。河原宿の勝ノ屋には福田侠兵が宿営した。24日は大雪。
萩政府の動き
萩藩政府は、元治元年(1864)12月24日に毛利宣次郎(厚狭毛利)を諸隊鎮静軍の総奉行に任じた。26日、粟屋帯刀を将として諸隊鎮静の先鋒隊1200名が萩城下を出立し、28日絵堂宿の庄屋藤井弥伝次邸(後の柳井邸)を本陣とし、別働隊の財満新三郎が一ツ橋に駐屯した。27日には鎮静軍後軍児玉若狭1200名が赤間関街道北浦筋を三隅に進軍。28日、毛利宣次郎総奉行等鎮静軍本隊は、1400名が明木に本営を構えた。
諸隊の動き
26日、高杉晋作等を追討する兵200人が絵堂まで進出したとの風聞に諸隊の者が騒ぎ立てた。もし、伊佐通行の時には、迎戦するとして南園隊が先鋒として河原宿に繰り出した。
20日諸隊に同行していた三条西季知・四条隆謌の両卿は伊佐を出発して萩へ向かおうとしたが、諸隊が押とどめた。萩城下に幕府の監察使が来ているので、諸隊が警衛として城下に入ると戦いとなり、両卿の身の安全も保障されないとした。22日、藩主の名代益田孫槌が重ねて出萩を拒んだ。両卿は27日の早晩、古浅おとくを同伴して伊佐を出立し、山中・厚狭を通り、夕暮れには長府功山寺に帰り着いた。
長府に滞陣していた御楯隊は、28日に四郎ケ原宿まで隊を移動させた。また、萩本営に居た南園隊は脱走した。29日に伊佐の奇兵隊銃隊・狙撃隊、南園隊、八幡隊銃隊2隊が河原宿へ移動し、首脳会議を開いた。
萩政府からの使者と諸隊の対応
27日、藩政府から使者として武藤又兵衛等が伊佐到着。馬関に居る高杉晋作等の遊撃隊を追討するので鎮静軍を通すように指令し、また諸隊に対して武装解除をして徳地へ引っ越すよう命じた。これに対して諸隊は、追討軍の通過を拒否し、北浦を廻れと回答した。また、正月1日、萩から勝田甚四郎・楢崎一太郎が伊佐に到着。諸隊の総督(奇兵隊の天宮慎太郎・林半七、南園隊の滝鴻二郎)等へ、退去と兵器の返還を命じた。総管等は、軍監書記とはかり、山県狂介(有朋)の意見に従って使者を欺くことにした。「退去は謹んで命を受けるが、隊兵の兵器を一時に返還することは困難であるので数か所に分けて命に従うので、正月3日までの猶予…」を求めた。使者は諸隊がすんなりと命令に従うものと思い喜んで帰った。
諸隊の動き
元治2年の元旦、二卿の付き人であった中岡慎太郎は、河原宿で奇兵隊の面々と酒を酌み交わしていた。中岡は2日に伊佐宿に行き、佐世八十郎(前原一誠)が馬関より昨夜から来ていたので面談した。5日には再び河原宿に行った。河原宿には正月6日から宿の専正寺を本営とし、隊員は宿中に分散して止宿していた。
元治2年正月6日夜、にようやく追討軍の撰鋒隊士山本伝兵衛・楢崎幾太郎・勝田が使者として兵器返還の催促にやってきた。諸隊は「遠路のところ、寒さといい、今晩の御出はさぞさぞ難儀であったろう」として、使者を町はずれの三隅八兵衛宅(伊佐下村)へ連れて行き、珍味を尽くし酒希をもてなした。宴半ばを過ぎて「今夜に至り器械を預るなどとは諸隊各中を憚らず嘲弄なさる気か」と一喝して使者を追い出した。使者の一人は大津へ、もう一人は伊佐から真名→長田→大石→佐々並を目指して帰還する。
この間、河原宿にいた諸隊は、天宮慎太郎を斥候隊司令として、奇兵隊2隊・南園隊・八幡隊2隊・(庸懲隊)の約150〜200名が河原宿を出立して、赤間関街道中道筋を北上し、絵堂宿へ向けて進軍を開始した。道行く人は木に縛り付け、行軍が漏れないように用心をしたという。
大田・絵堂戦開戦 (元治2年〔1865年〕正月6日夜半〜7日未明)
絵堂宿は、寛文年間(1665年頃)に開発され、貞享年中(1685年頃)赤間関街道中道筋の萩から2番目の宿場に取り立てられ、幕末には63軒あった。
元治2年正月6日夜五ツ時(22時)過ぎ、諸隊斥候隊は絵堂宿のはずれに到着。
明けて7日未明(2時頃)、中村芳之助・田中敏助2名が馬で萩政府軍本陣の粟屋帯刀に戦書を届け、帰隊すると同時に野戦砲を合図に小銃の一斉射撃を開始した。諸隊士50〜60人位が、宿の西口から東口まで市中を銃撃しながら絵堂宿を制圧した。萩政府軍は奇襲に慌て驚き、応戦しながら一ツ橋及び赤村まで後退した。
明け方、一ツ橋に駐留していた別動隊の財満新三郎が馬で駆けつけるも、東口を守備していた南園隊竹本多門等に狙撃され戦死した。
絵堂の養泉寺には荻野隊が帯陣していた。荻野隊は元来諸隊に属しており、顔見知りや知人も多いので、諸隊から度々味方になるよう督促があった。この日、未だ中立の立場をとっていた荻野隊は、養泉寺の門前の松に隊名を標した提灯を掲げていたので、諸隊はあえて攻撃を避けた。あくる日、荻野隊は萩政府軍側に就いた。このことから、次の戦闘からは、萩政府軍側の先鋒として戦うこととなる。養泉寺門前の松は、永い間「ちょうちん松」として絵堂住民から親しまれていたが、昭和40年代のマツクイムシ被害で枯れ死した。
この日の戦闘での戦死者。
諸 隊 側 斥候隊長:天宮慎太郎、奇兵隊小隊司令:藤村太郎、南園隊士:三宅秀之丞。
萩政府軍側 撰鋒隊大伍長:財満新三郎、財満臣:林 覚人、撰鋒隊士:吉井千熊、
撰鋒隊伍長:高村旅之助、粟屋帯従者:作蔵。 以上8名。
絵堂戦跡記念碑(訓読) 大正15年5月建立。
維れ、慶応元年正月長藩諸隊義を唱へ、其の六日夜先ず選鋒隊を絵堂に襲ひ、之を破る。尋いで川上・呑水に転戦し、諸處皆これに克つ。十六日夜復、絵堂を攻め正岸寺原に進戦し、遂に敵根據を奪ふ。もって戦局を結ぶ。是に於ひて正義・俗論を振って熄む。一藩勤王之業、是に由りて立つ。史乗を詳らかする事、爰に大略を記すを以って、後昆に傳ふ。
萩政府軍先鋒隊粟屋帯刀軍1200名は、元治元年(1864)12月26日萩城下を出発し、28日から絵堂宿の酒屋藤井弥伝次邸(現・長広宅)を本陣として、元治2年正月7日未明まで絵堂宿に帯陣した。この藤井邸の門が今でも残り、門の右柱に弾痕が残っている。大田・絵堂戦役緒戦の弾である。明治になり藤井邸は柳井邸となったが、これも平成17年に売却され、現在本陣跡は長広氏の住宅となっている。門は、柳井氏から当時の美東町教育委員会が譲り受け、平成17年の移転工事で、白山神社境内(御旅所用地)に移築保存された。絵堂宿西はずれの地で、正月7日未明に諸隊斥候隊が最初の砲撃を行った地でもある。現地には「絵堂戦跡記念碑」が大正15年に建立されている。
○養泉寺
養泉寺は絵堂宿中程の西北山裾にあり、紅葉が美しい。絵堂開戦時の荻野隊の宿陣地である。諸隊員とも親交があって、諸隊からの要請で門前の松に「荻野隊」の提灯を掲げており、諸隊は襲撃を避けた。その松を地元民は提灯松と親しんでいた。
☆コラム:荻野隊の動向
荻野隊は、元来諸隊の一隊で元治元年の暮れには伊佐に宿営していた。伊佐徳定村の本間覚兵衛宅・堺屋源左衛門宅を宿営地とし、元治2年の正月3日には土佐藩の中岡慎太郎が荻野隊の山県三左衛門・三村伝蔵と面談している(中岡慎太郎日記『海西雑記』)。荻野隊は士分の者が多く、その後離反して政府軍側に付いたのであるが、正月6日時点では、諸隊からの再三の勧誘にも態度を決めかねており、宿営地養泉寺の門前の松に隊名の提灯を掲げていた。絵堂開戦後、萩大屋に撤退して、改めて政府軍側に付くこととなった。したがって、以後の大田・絵堂戦役では、常に先陣に立たされることとなる。しかし、荻野隊小隊長を務めていた児玉愛次郎(井上聞多襲撃の一員であったことを後年に暴露する。明治時代には宮内省図書頭などを務め昭和5年逝去)の回顧録では、大田・絵堂戦で一小隊を率いて参戦したが、実際には戦闘に参戦することがなかった旨を述べており、萩政府軍側の戦略はかなりあいまいであったようである。
☆コラム:薩長同盟に尽力した中岡慎太郎の行動
中岡慎太郎は土佐藩を脱藩し、元治元年(1864)7月禁門の変の後、京都から長州へ下向された三条実美ら七卿の世話役として従事していた。同年7月に始まった第1次長州征伐で、萩藩が保守派政権に交替すると、降伏の条件でもある五卿の筑前移封が決まった。『奇兵隊日記』によると、五卿の扱いについて「十二月二十二日夜半、土州石川誠之介(中岡慎太郎の変名)が御使者として早打ちにて萩城へまかり越し候こと」とある。中岡は萩からの帰途に、鎮静軍(萩政府軍)の大軍を見ており、後の4月3日吉田で山縣狂介に再会した折りに、無事を喜びあっている。中岡は、萩からの帰途、伊佐に宿陣していた諸隊に合流し、一時行動を共にして、絵堂開戦の勝利を目の当たりにしている。この時長州藩諸隊(草莽崛起)の底力を知り、薩長同盟ひいては倒幕の可能性を察知したと推定される。
中岡慎太郎日記『海西雑記』より、
「元治二年乙丑元旦、長門国河原の駅に在り、奇兵隊出張、福田良輔(侠平)、藤村太郎、小藤次郎助、真田市太郎、山田豊助(鵬輔)、及南園隊佐々木男也、武元多門等と同じく年を越ゆ、もとより陣中の事なれば、節餅の式等絶えてなし、只菜根にて酒を酌んだり。藤村太郎大晦夜歌あり、《七重八重、かこみしあだの、うちなれば、くれゆく年の、道やなからむ》皆々早朝は朝拝し畢わって、或は直衣など著し、又は鎧なんどを著し、酔ては放吟談笑、慷慨の余憤やる所なきありさまなりけり、此日萩府方軍中より、楢崎市太郎、勝田仁太郎両人来り、諸隊え命令を伝ふ。
二日 伊佐に行、昨夜より佐世八十郎(前原一誠)馬関より来り居面談す。此日槍隊にて大酔。
三日 荻野隊山県三左衛門、三村伝蔵面会す。
五日 河原に行。
六日 雨天。此夕諸隊謀而、粟屋帯刀の兵を絵堂の駅に襲ひ、大に其軍を敗り之を走らす。……(略)……忽ち銃砲を発て之を襲ふ。其音に鯨波を交え、恰も激雷の如し、天地皆震動す。敵対戦に及ばず、兵器を捨て四方に散乱す。初砲の発する、鶏鳴の刻より曙色に至る迄、発砲して不己、盛と云うべし。」
しかし、絵堂の地は狭く、防戦には地形的に不利であることから、8日大田へ兵を移動させた。
大田市
大田市は、古くからの市で、中世末から近世初頭の長登銅山の隆盛により発展した市である。慶長検地(1610年)時には屋敷数296軒とあり、県下でも4番目の市町であった。幕末時には113軒あり、美祢宰判勘場(代官所)も置かれて、美祢郡の中心地として栄えていた。
諸隊宿営地と守備位置
諸隊本隊は、7日大田へ陣を進めた。奇兵隊本陣を光明寺に置き、八幡隊本陣を福田寺、地蔵院は器械置場、宗国寺(光明寺西側、現在は廃寺)に砲隊、西光寺が銃隊の陣所となった。
大田の守備は、大木津口に奇兵隊約200名、長登口に八幡隊約60名・膺懲隊約40名、大平・赤坂に南園隊約50名、鳶ノ巣に御楯隊約50名を布陣し、金麗社横の大田川土手から野戦砲を絶え間なく発砲したという。今でも大田川底から砲弾が出土することがある。
村民の協力
御楯隊隊長大田市之進(御堀耕輔)は、7日に山田市之允・駒井政五郎・野村靖之助等50名と共に小郡代官所へ赴き、庄屋林勇蔵等と資金の借用と兵糧米の調達を約束し、後方支援策をいち早く確立させた。戦いの大きな勝因の一つである。この小郡から大量の食糧が搬送された時は、大田郊外の農家が人夫や農兵約1200名の宿舎となり、家主は女房・娘を実家へ移し、軒下で畳を屋根にして夜を明かしたと伝えている。
また、『正俗戦争記』には、「大田入口八ケ所受場手配し、夜中ハ篝火焼之、大田百姓并近辺の男女小児ニ至迄、夫々向々の手伝致ス事実に尽筆紙ニ候」とあり、村民こぞって諸隊に協力した様子が分かる。諸隊側も農民には気遣いを行い、農地への踏み入れや農作物の被害を規制していた。例えば、守備見廻り隊士が通る道に梅木が邪魔をしていたので、馬丁が伐採しようとしたところ、隊士は切る事を諭して馬から降りて通過したという語り伝えがある。諸隊には、「みだりに農家へ立ち寄らないこと、農業の妨げをしないこと、牛馬に出会ったらよけること」など、農民の立場に立った掟「諭示=ゆじ」があり、厳格に守られていた。また、大田・絵堂戦役後の奇兵隊は、下関吉田を駐屯地とし、始終一環して農村部を守ることに徹した。
幕末時には、諸隊の本営が置かれ、諸隊幹部の髻が奉納されて戦勝祈願が行われた。この髻は、太平洋戦争終戦までは現存していたようだが、終戦時に始末されたらしく、今は現存しない。
明治44年の神社整理で大田八幡宮に合祀され、大田天神は隣に移設され無格となった。大正6年、山県有朋が萩に帰郷の折り、若き日の大田・絵堂戦跡を訪ね呑水垰で手弁当を食したと伝うが、この時、意義ある大田天神が無くなったのは遺憾だと云うことで、山県の命で大正9年に社格が復旧し、金麗社が正式名称となった。傍らの大田川を
○大田邑碑碑文《訓読》 正三位公爵毛利元昭篆額
癸丑の歳、外艦浦賀に闌入す。此れより海内騒然たり。
天子赫怒せられ應懲の詔を下したまふ。而るに幕府逡巡して奉行する能はず。獨り忠正忠愛の二公は叡旨を奉載し/防長の二州を挙げて以て尊攘に従事す。是に於いて馬関の役あり。既にして讒人謀を献じ、二公を沮む/志士憤激し冤を闕下に訴ふ。是に於いて京師の難有り。二公の志、伸ぶるを得ず。而して四境の兵已に逼り/偸安姑息の徒二公を要して恭順を唱へ、君を幽しこれを削封す。志士を殺戮するを顧みず。以て哀を幕府に乞ふ/諸隊を目するに勇烈の士過激暴慢と為るに、遂に解隊の令を下す。将に兵にこれを逼らんとす。諸隊、乃ち書を其の/營に投じ、大義名分を以て責むる。是に於いて、繪堂戦有り。繪堂の地、據守するに便ならず。諸隊乃ち、大田に轉陣し/数戦捷を奏す。是より防長の国是、竟に定まれり。嗚呼、此の戦捷たずんば則ち二州の忠義の気は沮まれて/二公の大節、将に復た見えざらんとす。而して天の眷りみる所能く克捷を致すは獨り二州の幸ならず、異日大政/維新の盛を覩るを得たるも亦未だ嘗て此の役に基づかざるあらざるなり。今や昇平に遭際し戦闘の迹を覧、陣没の士を弔ふ/孰れか慨然として、歎かざる者有らんや。茲に諸子と謀りて石を建て當時の梗概を記し、以て後人に示すと爾云ふ。
明治三十九年二月
○殉難十七士の碑碑文《訓読》
明治維新の成敗は、防長二州の向背に繋がり、防長二州の向背は、繪堂大田の一戦に決す。然れば則ち義//軍に属して、身を此の役に致す者、其血は以て二州の俗論を洗ふに足り、其骨は以て維新の鴻業を支うるに足る。文久三年、堺町御/門の變有り。翌元治元年蛤御門の戦有り。幕軍大挙して我四境に逼るや、藩論分裂して、一つは主戦を唱へ、一つは恭順を表す。時に人/前者を称して正義派となし、後者を俗論黨として名づく。當時、俗論黨は藩政の要路を占め、藩公を幽し、三大夫を斬り以て幕府に謝罪し/横暴に至らざる無し。是に於いて志士憤慨し、諸隊激昂し、遂に討奸の檄を發し、、兵を挙げて大田に進む。俗論黨も亦諸隊追討の令を下し/前軍繪堂に抵たる。諸隊襲撃すれば敵兵支えずして走る。是慶応元年正月六日の夜なり。十日、長登及び川上に於いて会戦す/十四日、敵兵大挙して来攻し、鋭鋒も當る不可なり。諸隊奮闘して呑水の堤に於いて拒めば、敵兵遂に潰走し赤郷に屯す。諸隊追躡/して将を斬り、旗を奪ひ、長駆して巴城に入り、防長二州の藩論茲に一決す。嗚呼、此の役に殉ずる者、天宮慎太郎君等十/七士墳墓大田村に在り。其長者既に贈位の天恩に浴し、其軽きは亦、官祭の榮典を荷ふ。今歳恰も五十周/年に當り、有志者相諮り石を金麗社内に建て祭儀を挙行し、碑文を予に嘱す。予京師変動の際、三條公以下七/卿を護りて帰国す。今歳七十九の頽齢に達し、當時を回想し俯仰の感に堪えず。乃ち、概要を記して請に応ず。銘に曰く/
一身を君に捧ぐ 十有七士、 奮闘力戦して 維新起つ所 義骨朽ちること無し
忠魂は死なず 美祢の山 大田の水 峩々洋々として 永く青史に映ゆ
○奇兵隊寄進灯籠
国家多難数祈 公朝誅内奸
攘外賊固非人力今慈丙寅八
月落小倉城得諸延明命寺以徒
大田駅奉祠前聊報 神助之萬分
奇兵隊
元治四年丁卯秋七月
慶応2年(1866)9月、幕長戦争(2次長州征討)で長州藩が勝利し、奇兵隊が小倉延命寺の灯籠を戦利品として摂取し、慶応3年7月に寄進したもの。運搬を委託された小郡庄屋林勇三・秋本新蔵達が、費用を出して道路補修等も行い運送したという。
この銘文は、大田・絵堂戦当時の天神の霊験に答礼して奉納、年号を元治四年(慶応3年)としているのは、時の将軍慶喜に応じないという意気込みが窺がわれる。
○杉孫七郎の句碑
「星ににた うめのひかりや ちとせまで」 古鐘
星は明けの明星を指し、梅の光は大田・絵堂の一戦が維新の夜明けを迎えたことを指している。特に奇兵隊は天神信仰に厚かった。
☆コラム:杉孫七郎
杉孫七郎は、天保6年(1835)吉敷郡御堀村生まれ、母は周布政之助の姉にあたる。植木家から杉家の養嗣子となり、やがて敬親公の側役となる。詩文に優れ、書は特に秀でていた。名は重華、字は子華、通称徳裕、孫七郎、号は聴雨・三泉生・古隈・古鐘。文久元年(1861)藩より推され幕府の遣欧使節団の一員として福沢諭吉等と欧州諸国を廻り、「長州ファイブ」より早く世界を見聞した。元治元年(1864)英仏米蘭連合艦隊による下関戦争後の講和では、高杉晋作が正使となり、孫七郎はその副使を務めた。
大田・絵堂戦役の後、萩藩中立派の鎮静会議員の主導者として、杉民治と共に藩政の改革推進に尽力した。その後、幕長戦争(四境戦争)で石州口の軍監・参謀として活躍し、明治以降、山口県権大参事、宮内大丞、秋田県令、特命全権公使、皇后大夫などを歴任。明治20年子爵、同39年枢密顧問官となり、明治政府の中枢として活躍する。大正9年5月3日没、行年86歳。能書家としても知られた。従一位を叙す。
漢詩「大田駅有感」 含雪〈山県有朋〉
曽破重圍期萬死
白頭回顧轉堪悲
卅年不認血痕碧
唯有渓聲訴舊時
明治31年、萩に帰省した山県有朋が、幕末時の大田での戦いを思い起こして詠んだ詩
漢詩「大田陣中作」 伊藤俊輔
整旗堂々颺北風 整旗堂々北風にまい
部伍令厳意気雄 部伍令厳にして意気さかんなり
感涙無端零馬首 感涙端なくも馬の首におつ
死生唯在一聲中 死生唯一聲のうちに在り
☆コラム:楫取素彦の命を救った大田・絵堂戦
明治41年(1908)「大田絵堂之役殉難志士紀念祭」の時、楫取素彦が和歌を金麗社に奉納している。「この神の 守りしなくは 我屍 野山の露と くちはてにけん」
楫取がまだ小田村姓を名乗っていた、元治元年(1864)秋、第1次長州征討の幕府謝罪として萩俗論派政権による藩内革新派の弾圧が続き、11月三家老の切腹、四参謀の処刑、11月15日中山忠光卿暗殺(長府藩)、12月19日正義派の重臣七名が打ち首となり、この中に小田村伊之助の実兄松島剛蔵も居た。
伊之助も12月19日に野山獄に投獄され、年末には処刑される予定であったが、書類手続きで敢えて年を越し、またまた正月行事や大田・絵堂戦役の勃発で延期され、革新派諸隊の勝利によって、2月15日に恩赦で無事出獄となった。歌には、大田・絵堂戦役の諸隊本陣であった大田天神(金麗社)への感謝の念が込められている。
近年、下ノ垰と土地ケ垰の中間地点で、山芋掘りの途中地下30〜40㎝で径7㎝の砲弾が出土した。付近には未だ銃砲弾が埋もれているものと推察される。
○
「とちがたお」は、栃垰・栩垰とも表記され、クヌギとも読める。赤間関街道から瀬戸内の刈屋(現山陽小野田市刈屋)へ通じる舟木街道と、北浦(山口県の山陰側)の仙崎(現長門市仙崎)に通じる瀬戸崎街道の交差点でもある。司馬遼太郎の小説「世に棲む日々」では「橡峠」としているが、これは誤りというべきであろう。特に、防長地方では、「とうげ」のことを「たお」と云い、「垰」の字を当てるので、要注意。
○
下ノ垰は、土地ケ垰から東の絵堂方面に200mばかりの地点で、ここは、萩方面から来て左手に分岐する三又路となっている。高さ50㎝の花崗岩製の道標には「左大田・右せきみち」とあり、左大田方面は長登銅山の町屋敷を通って、大田の美祢宰判勘場へ通じる勘場道として通行も多かった。ここから真直ぐに行くと赤間関街道の関(せき)に約○里となる。最近、道標の裏面の読みづらい字が判読できた。「佐助 重右エ門 はぎはまざき」と刻銘してあり、萩城下浜崎町の2人が設置したと考えられる。
○
乙之進は、長登在郷武士福原熊槌の嫡子として天保8年(1837)に出生、通称乙之進、変名長原美祢介を称す。文久2年脱藩して上京、12月には高杉晋作達と英国領事館の焼打ちに参加し、逃走中爆弾の火薬を口に含んで隠したと伝える。志士として活躍し、久坂玄瑞とも交友大であった。翌3年11月赤坂の土井邸で密議中に古河藩士に襲われ自刃。小説『鞍馬天狗』を執筆された大仏次郎氏は、昭和41年に美東町を訪れて維新史跡を探訪され、福原乙之進の進出奇抜な行動を批評されていたとか……!
墓は、美祢市美東町長登 常福寺境内(山門を登り左手)にある。元来長登村の刀禰にあった毘沙門堂境内に所在(この場所は福原屋敷の前に当たる)していたが、平成17年頃に「小郡萩道路」新設工事で移転を余儀なくされ、常福寺が引き取られたものである。
ここから大田川は峡谷に当って大きく右へ屈曲して新井手原となるが、ここは諸隊本営金麗社を見通す地点で、諸隊側は必至の防戦に努めるも苦戦。金麗社本営の山県狂介は銃声の近づくのを知り、騎乗にて前線を指揮して敗兵を督励。その後、奇兵隊別隊を投入し諸隊の応援を求めた。奇兵隊第二銃隊隊長湯浅祥之助・伍長鳥尾小彌太・南野一郎・滋野謙太郎らは部下とともに小高い丘に登り、幣振坂より一挙に下り敵の側面を突いた。この奇襲作戦で敵は混乱し、態勢は逆転し、萩政府軍は再び劣勢となって絵堂方面へ退却した。山県有朋の決死の挽回で、その後大正時代には「幣振坂の戦い」として著名となった場所である。「幣振」とは、金麗社の御幣を下げて決死の作戦であったことにちなんでいるという。
○
幣振坂は、現在の川上集会所が位置する裏山で、小丘の鞍部から川上方面へ降りる道である。現在は小郡萩道路の高架が通過し、往時の面影はない。友永から川上集落に通じる近道で、約30度の急斜面であったが、湯浅隊長らは、金麗社の御幣を身に着け、この坂から敵陣中央に決死の急襲を仕掛けたといわれる。
○撰鋒隊士の墓
川上橋から南へ約100m、道路から東に約20m東に入った畑地に2基の墓がある。墓碑には、撰鋒隊士水津岩之允・駒井小源太の刻銘があり、町内に残る萩政府軍側墓碑3基の内の一つである。建立年月は不明。地元の人々が管理している。
○力士隊士の墓
平成26年11月、大田・絵堂戦役150周年記念事業にかかる募金活動を展開中に、大木津在住の古老から連絡があり、実に150年振りに明らかかとなった萩政府軍力士隊士の墓である。
古文書によると、大木津川上口戦での戦死者は諸隊側9名、萩政府軍側6名で力士は若稲荷勝蔵と祝ひ山多助がいるが、大木津戦での戦死は萩政府軍側1名力士隊の若稲荷勝蔵(稲荷山勝蔵とも記す)のみである。
墓は、五輪塔や宝筐印塔の一部、自然石などを五個積み重ねたもので、臨時に造成されたことが窺がえる。放置してあった屍を地元民達が埋葬したものと考えられるが、墓標を意識して近隣に在った石を寄せ集めて、丁重に葬ったものといえよう。森重家のみに伝承が伝わっており、語り継がれたのは昭和24年頃であるという記憶からも、高齢となられた森重氏が打ち明けられなければ、永遠に世に出る事はなかったと考えると、150年目にして誠に奇遇なことである。
12日、小郡に居た御楯隊大田市之進らが大田に帰る。
12日、萩政府軍児玉若狭軍が三隅を出立し嘉万村に出る。綾木九瀬原へ出陣しようとするも、領地民の制止により、秋吉村に器械等を預け赤植山に転陣。
13日、高杉晋作率いる遊撃隊が吉田から秋吉へ着き宿泊。児玉軍が預けていた器械・火薬を奪い大田本陣へ運ぶ。
14日、遊撃隊本隊が大田へ移動。この折、秋吉台上で児玉若狭軍と遭遇し銃撃戦となる。
この日高杉晋作率いる遊撃隊が四郎ケ原から進軍し、秋吉台下で児玉軍と遭遇して 銃撃戦となる。児玉軍は植山から秋吉台上を通り青景に転陣する途中と考えられるが、撰鋒隊士1名が戦死。遊撃隊は交戦後に山の尾伝いに長登村胡麻畠へ出るも、既に呑水垰の戦闘は終わっていたと云うから、午後4時頃であろうか。胡麻畠から諸隊本営「金麗社」まで2㎞の距離である。
遊撃隊は15日にかけて約300名が大田に到着し、南園隊約50名は佐々並の守備へ転陣した。
また、17日には青景村に宿陣していた児玉若狭軍は、三隅村宗頭まで陣を引いた。
荻野隊士堀越松三郎の墓
☆住 所 〒754−0211山口県美祢市美東町長登610番地
☆電 話 08396−2−0055
☆アクセス 中国道の美祢東JTCから小郡萩道路(無料)に入り、大田ICから車5分
山陽新幹線:新山口駅から萩行バス35分、長登銅山入口下車、徒歩10分。
☆開館時間 9:00〜17:00(映像視聴は16時30分までに入館)
☆休 館 日 年末年始、月曜日(祭日の場合は開館し、翌日が休館)
☆入 館 料 大人300円、小中学生150円、団体(20名以上)割引あり。
☆展示内容 火縄銃、ミニエー銃、弾丸、椎実弾、砲弾(大・中)、弾痕のある戸板、
陣笠、弾薬入れ、鉄菱、古文書、記念碑等の拓本、など。
大仏ミュージアムで案内します。
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☆国史跡:長登銅山跡
長登銅山跡は、奈良の大仏の原料銅を産出したことで著名ですが、和同開珎など古代銭貨の原料も産出した日本最古の銅山跡です。
長登地区には、古くから「奈良の大仏の銅を送ったので奈良登が訛って長登になった」という伝説がありましたが、昭和47年に山中から奈良時代の須恵器が発見され、平成元年から10年間の発掘調査で、奈良時代の製錬遺物や多量の木簡が出土したことにより、この伝承が事実であることが証明されました。
平成15年に国史跡に指定され、出土品などが長登銅山文化交流館(大仏ミュージアム)に展示してあります。
史跡は、日本最古の露天掘り跡や古代採掘の大切4号坑、明治・大正時代の製錬所跡、山神社などが残っており、遊歩道が整備されて見学が可能です。
大仏ミュージアムで映像を視聴して探訪されることをお勧めします。
展示品:天下の顔料:瀧ノ下緑青
文武天皇2年(798)「安芸長門二国金青緑青を出す」の記事は長登銅山の採掘を指すと考えられます。緑青や群青は、彩色の原料として珍重され、全国的にも産地は限られていました。
長登銅山においては、江戸時代中期以降の鉱山休山中に顔料生産が盛んとなり、長登銅山産の「瀧ノ下緑青」は、色目もよく天下のブランド商品として名声を馳せた。
岩絵の具は、行商で江戸・尾張・京・大坂などに運ばれ、江戸城西の丸や西本願寺などの修復にも使用され、年間売上5000両(約5億円)の記録もあります。群青(紺青・金青)1斤が20両(200万円)、緑青(録青)1斤1両(10万円)の相場で、高価なものでありました。
凡例=文書内の/\は繰り返しの記号、()内の文字は注釈として挿入しました。◎印は注釈 (池田善文)
〇 史料は、略称を【】書で示し、文面の冒頭に付す。
【回天】…末松謙澄『防長回天史』第五編上、大正元年。復刻版・平成三年:マツノ書店。
【奇日】…『奇兵隊日記 六』第一三冊。田村哲夫校訂、一九九八年三月、マツノ書店刊行。
【海西】…宮地佐一郎『中岡慎太郎全集』「海西雑記」より、一九九一年。
【諸日】…「諸隊追討略日記」元治二年(一八六五)正月、大田村藤井重兵衛記、(藤井家蔵)。臼杵華臣訳『諸隊追討略日記』美東町教育委員会、昭和四五年。『美東町史・資料編』二〇〇四年十一月、
【正俗】…「正俗戦争記」慶応四年(一八六八)春、岩永村大田代中嶋氏書写
【絵聞】…「絵堂戦争聞書」毛利家文庫、維新編年史料、
【沸騰】…『干城隊始末』附録・井上庸一手記「諸隊沸騰一件略」(毛利家文庫)『美東町史・資料編』二〇〇四年十一月、
【懐旧】…『懐旧記事』山県有朋口述録。
【閑居】…『閑居録—旧長州藩遊撃軍隊士回顧録—』和木村教育委員会、一九六五年八月。
【林日】…『小郡町史料・林勇蔵日記』小郡町史編集委員会 二〇〇三年四月
【速記】…「速記二十八亟」稲垣正一写字、質問者・中原邦平、応答者・児玉愛次郎、速記者・伊内太郎、明治三六年七月聞取り速記、(毛利家文庫)。
【始末】…「美祢郡戦争後地下始抹廉書」『美東町史・資料編』二〇〇四年十一月、
◎元治二年正月元旦〜六日
◆【奇日】元治二(一八六五)年正月元旦大晴、萩より御使番勝田甚四郎・楢崎一太郎両人書附を以て伊佐来着ニ付
二日、赤祢武人自馬関脱走。 ※奇兵隊日記に、三日・四日・五日の記述は無し。
◆【海西】元治二年乙丑元旦、長門国河原の駅に在り、奇兵隊出張、福田良輔(侠平)、藤村太郎、小藤次郎助、真田市太郎、山田豊助(鵬輔)、及南園隊佐々木男也、武元多門等と同じく年を越ゆ、もとより陣中の事なれば、節餅の式等絶えてなし、只菜根にて酒を酌んだり。藤村太郎大晦夜歌あり、《七重八重、かこみしあだの、うちなれば、くれゆく年の、道やなからむ》皆々早朝は朝拝し畢わって、或は直衣など著し、又は鎧なんどを著し、酔ては放吟談笑、慷慨の余憤やる所なきありさまなりけり、此日萩府方軍中より、楢崎市太郎、勝田仁太郎両人来り、諸隊え命令を伝ふ。
二日 伊佐に行、昨夜より佐世八十郎(前原一誠)馬関より来り居面談す。此日槍隊にて大酔。
三日 荻野隊山県三左衛門、三村伝蔵面会す。
五日 河原に行。
◇【回天】一度に兵器を返納するのは難しいので、数箇所へ分割し、正月三日に再度指令をと答え、使者は喜び去る。
◇【回天】六日夜、萩から使者の山本某・楢崎某・勝田某が来る。幹部は忙しいと代理を出して明朝に回答するとして、宿舎を半里離れた地(下村の三隅家)に案内。使者は七日に絵堂夜襲を知らされ、萩への帰路は間道をとる。
◇【正俗】正月五日、武藤又兵衛其外御武具役人岡半三郎都合上下三拾人余、御目付附林忠右衛門伊佐駅へ参り、諸隊器機可致返納との段被仰聞ニ付、七日迄延引申置候而、六日絵堂駅夜討之上、七日朝不得返段及返答候処、畏縮致し、萩江帰り、左候而諸隊本陣其外昼時より大田駅江転陣いたし候事
◆【諸日】六日夜五ツ時(二〇時)、先鋒隊之内楢崎幾太郎・正田某両人騎馬ニて秋吉宿金子平兵衛と云者之宅ニ来り、奇兵隊内藤村六郎兼て平兵衛方ニ為物見之ニとまり居る故相対相成、右両人より其方共ハ当宿へとゝまる事其意いかゝ哉と被相尋候ところ、私事ハ絵堂御陣所へ諸隊之者共乱にそぼふなと仕ては相済不申故、為其先日より当宿ニ罷在、乍併御二人様方は堅固之御支度、定て御追討之思召恐入申候とおたやかに申けるニ、イヤ拙者共全今夜追討ニハ不参ら、鉄鉋壱丁も所持ハ不致、只二人馬ニ乗り参る事、実ハ諸隊方之器械預りニ参候、当宿之器械今夜預り度と申ニ、藤村六郎当所ニハ器械更ニ無之、不残伊佐に有之由申ニ、左様ならば当宿ニ兵何程居候哉と相尋ニ、藤村六郎私共両三人と申せバ、然ハ残り二人ニ相対いたし度と申故、イヤ彼者共別当壱人中間壱人中々何もぞんじぬ者と申セハ、右両人河原之兵如何ほどニ候哉、伊佐之兵いかほと哉と尋ニ、藤村六郎彼之地之兵は此節何ほど共相わかり不申、御全儀有ハ只今より一走り参り全儀仕見候哉と申ニ、左様ならハ何卒兵数全儀御頼申、併拙者共二人ハ今夜七ツ時(四時)迄ニハ帰陣致べし、其方只今より直様全儀被参ら、拙者二人ハ器械預り之ためニ跡より追付参るへし、其方ハ決て帰り道途中ニてもくるしからす委細御頼致へし、然は御免と藤村六郎我馬ニ乗り走り行、……
その後、萩方も、半時後に追っかけて伊佐本陣へ到着し、酒の接待を受け、宴半ば過ぎに「今夜ニ至り器械預かるなどとハ諸隊各中を憚らずちょうろふなさるかと申ハ、中ニ取あつかい早々御引取と申せハ、右二人分れ、」一人は大津へ、一人は真名市→長田→大石→佐々並を指して帰らる事。(下Aに続く)
◇【正俗】 六日夜五ツ時(二〇時)、諸隊(奇兵隊二隊・南園隊・八幡隊二隊)河原出発。秋吉宿を通り、
◇【懐旧】此に於て諸隊は結束して進發之途に上る第一には先鋒の司令は日暮に及び天宮慎太郎を以て斥候司令とし劈頭に發程して秋吉台の山路に向はしめ其間往来の者に逢へば何人たるに論なく一々執縛して之を路傍の樹木に繋ぎ以て漏洩を防がしむ。
◇【回天】河原駅駐屯の諸兵に奇兵隊一部・南園隊・膺懲隊が合流して、天宮慎太郎斥候兵を率いて先導し秋吉台下を経て絵堂に向ひて潜行し、処々小炬を點し、黒夜の行軍を照して進み先鋒の絵堂付近に達するや中村芳之助田中敏助をして戦書を持し馬を駈り敵営に至りて之を交付せしめ其帰るや一発の砲聲と共に直ちに駅外の高処より駅中を射撃し、相踵で駅内に入る
◎正月七日未明:絵堂の開戦(六日深夜〜七日未明)
◆【奇日】六日、我前軍秋吉(河原か)出張人数、及南園隊・膺懲隊の勢を合せ、夜半絵堂の敵を襲ひ、敵首領数多討取分捕甚多し、我隊ニも藤村太郎・天宮慎太郎討死、石井寛二手を負ひ候事。
◆【諸日】…(上Aより)折しも河原之兵百五拾騎計り、無提燈にして絵堂宿本陣さして押寄討入事、夜八ツ時(二時)先陣拾五人後陣百三十人せつかふを以事をうかゝい、先陣ハ張番所へとん/\/\と鉋発し、直様火掛あかりニして本陣へ押寄、先鋒隊兵コト/\クチリ/\ニ赤村一ツ橋辺迄落行ける、本陣粟屋帯刀殿甲冑器械其外団葉等さし置、赤村八幡社まで上下五人落行ける、夫より翌日同村こまと言村辺より横瀬村迄引陣相成事、夫より追々夜明方ニ相成、翌日七日早朝、先鋒残兵追討之ために絵堂宿之西之方ニ向て六七人鉋発する折しも、小ぐら之方より往来筋を、騎馬ニ乗武者壱人、別当中間両三人連ニ而一参ニ来ルを見て、右六七人之諸隊兵彼之騎馬武者ハ慥(たしか)ニ先鋒隊内之大将らしき者、今此所へ来らば討取べしと申合、相かわらず鉋発する所へ、壱町計り跡より先鋒隊之者か財間新右衛門是に居る者共進め/\とげじしけるを、大将いざ/\御進候へと言折しも、彼の兵六七人か左右へ分れ、真中をたじ/\ととふりぬけ、其跡直様鉄鉋を以とん/\と財間新右衛門ヲさして討掛ル、即時にぐんにやり落馬せし財間が懐中しらぶるに申合せし密書有、直様諸隊ノ兵取揚懐中し、此時財間新右衛門之首討落し、乗馬ハ取揚、首は山口本陣ニ直様送る事、此外先鋒兵之首絵堂ニおいて以上七人取、いづれも首絵堂ニ立る事(略)…
◆【海西】六日 雨天。此夕諸隊謀而、粟屋帯刀の兵を絵堂の駅に襲ひ、大に其軍を敗り之を走らす。此より先、諸隊追討と唱へ、萩府姦吏等国侯の命を矯め、兵数千を出す。粟屋なる者千有余人を率て絵堂に陣す。是に因て諸隊等大に怒り、佐々木男也、天宮新太郎、福田良輔、藤村太郎、真田市太郎等、銃砲隊凡百余人を率て、先鋒一番手と為り、時山直八、三好軍太郎等百余人二番手と為り、薄曙伊佐駅を発し、河原にて兵を揃へ、直に進で絵堂に至り、姦吏の罪名を挙げたる戦書を帯刀に送り、及び策を荻野隊に施して傍看せしむ。忽銃砲を発て之を襲ふ。其音に鯨波を交え、恰も激雷の如し。天地皆震動す。敵対戦に及ばず、兵器を捨て四方に散乱す。初砲の発する、鶏鳴の刻より曙色に至る迄、発砲して不レ己、盛と云ふべし。此戦争に天宮、藤村討死、三宅秀之助も同断。姦賊財満真之允を武元の部下にて討取。
七日 雨天。敵捨つる所の器械を調べ、民を諭し防略を成し、酒をやり士気を勇め、後軍の至るを待つ。後軍山県狂助等申刻に至る。此夜相共に諸口を守る。
八日 晴。諸勢大田駅に移る。
九日 晴。予発大田長府に帰る。夜ニ更著す、直に馬関に行。翌朝著。
十日 同。高杉、山県諸友に逢ふ。此夜伊勢屋に宿す。
十一日 長府に帰る。此夜又馬関行、此日高杉等発行。
十二日 初鶏出馬、未明府に帰る。此日川上土肥、吉村等伊佐方に行。後防長の勢を聞くに、十日、十一日、十二日、あり、十四日、十六日大に戦ふ。諸隊皆勝、高杉晋作大に計策を施す、自是以後は双方砲留之由也。
◆【県史・諸隊関係編年史料「一月七日、日記C」】今朝四ツ半時(十一時)此明木より為御注進内藤潤太使役小倉孫市罷帰候処、絵堂村え致出張居粟屋帯刀殿本陣え諸隊之者昨夜半致夜襲候段、記録所ニおいて御当役方其外え委細申上候事
三戸源四郎使役赤村之内一ツ橋より御注進として罷帰候、粟屋帯刀殿一手不残絵堂村引払、赤村之内地蔵坂と申所え引取候由。
◇【正俗】六日、絵堂総大将粟屋帯刀并一手先鋒隊足軽無丘都而千二百人余り、…(略)…正月六日夜五ツ時(二〇時)河原へ出陣、八ツ時(二時)絵堂江著く、諸隊より戦書を以粟屋帯刀江応援一途相済、出張所迄罷帰り、直様野戦炮旧炮ホ相図ニて小銃隊一同ニ打掛、西の入口より東入口迄無二無三に打入、行列正敷駆廻り家毎ニ小銃打込ミ、粟屋一手を初め撰鋒隊其外一人トして戦者無之、一統分散し、或者腰を抜し、足お折、右往左往と逃失、武具馬具等捨置候段甚以見苦労事難尽筆紙ニ、独財満新三郎主従五人、一ツ橋と言所より駆来り、絵堂東の入口ニて南薗隊ニ出合、主従三人終に討捕、謀書数通懐中ス、実ニ天罰難遁して悪事露顕す。
◇【沸騰】五六十人程モ諸方ヨリ入込ミ、一同発機本陣ニ放火致シ候処、粟屋勢大ニ周章イタシ、漸一ツ橋辺迄散々ニ引退キ候由、其節大砲其外諸器械ヲ奪ハレ、士卒モ方々へ分散、帯刀モ一時行衛不知ト申事ニ候処、間道ヲ経テ赤村辺へ引退り
◇【絵聞】一、凡正七ツ時(四時)頃手始メ最初斥候騎馬ニ而粟屋帯刀本陣戦
書持参、直様引返シ駅尻より隊中小銃を以打登り御道中筋左右共三手ニ而家々ヘ打掛ケ候由相聞へ候事
一、撰鋒隊諸宿大慨町家之事
一、本陣へ野戦炮数発小銃等打掛ケ候事
一、荻野隊陣所養泉寺是ハ双方共打合無之、翌昼九ツ時(一二時)分赤村より当島宰判之内木間通り能登路迄引取之由ニ相聞ヘ候事
一、粟屋手勢ハ大慨駅後より赤村ヘ引取同村之内宮ノ馬場八幡宮江一応本陣ニ相成、翌七日絵堂村之内小野と申所又々本陣其後当島宰判之内横瀬辺迄引取、撰鋒隊も絵堂より同村之内一ツ橋まで引取、上小野辺不残宿陣之事
一、諸隊之もの押寄せ候人数凡七八拾人之間ト相聞へ候事
一、駅尻家壱軒焼失、右は諸隊より火を掛ケ候事
一、絵堂駅出夫之内同村北河内之者一人、同駅之者一人小銃ニ而手負之事
◇【懐旧】敵魁財満新之丞は壮士数十名を率ひ来り諸隊の輩が君公の御趣意をも知らずしてかかる亂暴を働くは何事ぞやと且つ罵り且つ馳せて隊長竹本多聞の守備線内に突入したり、竹本は維新の後越後口の役に戦死す年二十五、多聞は少しも顧慮せず只「打て」と號令を下し連發して財満を打斃したれば其餘の者共は散々に逃走したり。
◎養泉寺のちょうちん松伝承…養泉寺は萩政府軍の荻野隊宿営地となっていた。荻野隊は諸隊側にも仲間が居り、態度を決めかねていた。諸隊から味方するよう荻野隊へ親書の督促があり、中立の時には提灯を掲げるよう指示があったので、隊名の提灯を門前の松に掲げて開戦には参戦しなかった。【回天】
◎逸話A(絵堂都野実氏の祖母の話)「あのときゃーたまげたぞよ、わしらーみんな川の中へ逃げて下山まで避難したぞ」(文献5))
※絵堂の川は掘割で、下山集落まではほぼ一直線で一Km。
◆【奇日】 七日、前夜の注進有之、諸隊申合せ、惣勢大田・長登・秋吉辺へ出張す。我本陣大田光明寺へ相定、八幡隊其外も本陣ハ大田ニ罷居候事。
八日、我絵堂の人数を大田へ繰上ケ、長登りヘハ膺懲隊を残し置、諸隊大田を根拠ニ定め此近辺へ諸勢相纒居候事。
◆【諸日】同七日雨天八ツ時、奇兵隊八幡隊其外諸隊皆大田市ヘ引取事、奇兵隊本陣大田光明寺、八幡隊本陣福田寺、其外市中陣所ニナル事、尤地蔵院ハ器械置所、宗国寺鉋隊方入込之事、西光寺ハ銃隊之陣所
同八日昼後、鉋発諸隊シテそうどう之事、諸々出張相成事
同九日、奇兵隊陣所地蔵院ヘ引うつる事
◇【正俗】七日、八日寄手絵堂駅を堅、東入口奇兵隊一手、西入口膺懲隊一手、南入口南園隊一手、北入口八幡隊一手、野戦鉋絶間なく炮発ス、夜者大篝火焼之。
八日絵堂出張し諸隊引上ケ、大田駅江屯集す、大田入口八ケ所受場手配し、夜中ハ篝火焼之、大田百姓并近辺の男女小児ニ至迄、夫々向々の手伝致ス事実に難尽筆紙ニ候
◎逸話B(秋吉梅月氏の祖母の話)…奇兵隊が秋吉を通過するときは、男は労役を手伝い、女は炊き出しを行った。奥の目畑の婦人達は下八重まで出て握り飯作りを手伝ったそうだ。また、自住寺前の大庭家は在郷士族であるので、奇兵隊の襲撃を避け前の山に避難されたが、居宅には銃弾の痕跡が三発残っていたという。(文献6))
〇布陣は、大木津口(川上)を奇兵隊守備、長登口を八幡隊(堀真五郎約六〇か)・膺懲隊(赤川啓三約四〇か)、長登口の左方に南園隊、鳶ノ巣口に御楯隊の布陣。総勢五〇〇名位か。
◎逸話C(平原北瀬幾太郎氏の父の話)…「奇兵隊士二人が、家近くの小道を馬で通る時、梅の老木が枝を張って通れないので、一人が刀で切ろうとしたが、天神様の罰が当たるということで馬を下りて通っていった。」(文献5))
◇【回天】 児玉若狭軍は湯本から正明市へ、九日に河原村へ出て再び正明市、一〇日嘉万村へ。
◎正月一〇日:長登・川上口の戦い
〇長登の戦い(四ツ時〔一〇時〕〜九ツ時〔正午〕)
◆【奇日】十一日、昨日敵軍絵堂口より長登りへも敵軍数百人押寄せ、我軍槍隊・炮隊・其外八幡隊・南園隊・膺懲隊の人数を合せ血戦甚力む、敵数多討取、我軍も討死手負有之、
◆【諸日】七ツ時(一六時)長登刀祢村絵堂境ニ於いて合戦。
◇【絵聞】一、四ツ時過より九ツ時迄戦之事
一、一手長登土地垰ニ而戦争荻野撰鋒両隊同村下り口石畔を楯ト〆小銃打掛ケ候所、諸隊も不劣互ニ打合候得共場所柄悪敷趣ニ而諸隊終ニ長登尻迄引陣、夫より荻野撰鋒隊長登人家迄押寄せ此所人家五軒焼失、右ハ撰鋒隊より火を掛候由相聞ヘ候事
◇【正俗】同日長登御楯隊、南園隊の受場ニ朝五ツ時(八時)より撰鋒隊其外襲来、七ツ時(一六時)迄廻戦ス、双方討死手負多し、
◇【回天】一〇時頃、萩政府軍は荻野隊・撰鋒隊主力(脇役・おとりという見方もあり)で押し寄せる。※荻野隊は汚名挽回のため。
※『世に棲む日日』ではトチケ垰を漢字のままクヌギ峠としている。誤り。
◆【諸日】先鋒兵刀禰村農家六軒火ヲ差焼失、先鋒兵ヲ又々追掛絵堂迄追払
〇大木津・川上口の激戦(八ツ時〔一四時〕〜暮合まで)
◆【奇日】十日、敵軍襲来之注進有之、諸所援兵之手配り等申合、諸隊引受場所出張、賊之来るを相待居候事。
昼此賊軍数百人、大木津口より押寄せ候処、我銃隊二隊・小隊二隊出張、及ひ炮隊・煩隊を出し、戦を助ケ血戦甚盛ん也、初めハ我軍地雷火を頼ミ少々引退候処、敵軍勝ニ乗て来る故、地雷火掛候へとも縄切レて発せす、依て我軍は憤激して大血戦ニおよひ、終ニ敵を連々追返し、十数町追討して敵数多討取、我軍も世木騎六・柳半之允・田村熊吉郎、及ひ…(略)…
我軍川上口ニ陣を居置、遠篝を焼キ敵を相待候へとも、敵も労れて来らす
此日援兵トシテ我槍隊第一銃隊・南園隊・八幡隊来援セリ、南園隊斉藤竹之進、八幡隊中村与七郎・石田三千代・別当利吉討死ス、…(略)…
◆【諸日】又先鋒兵大木津村へまわり、諸隊伏勢七人大木津をふせぐ、又川上迄引退ク、打合甚敷、先鋒兵弐百人余騎只七人ニてアヤウシ、…(略)
◆【県史・諸隊関係編年史料「一月十日、日記E」】出張之先陣今朝ひばり山を押登、絵堂宿を打破、於諸所ニ頻ニ相戦ひ、諸隊大敗北、終ニ大田宿迄追詰候由御注進在之候事
◇【回天】一〇日未刻(一四時)、大木津口の北軍は力士隊(角力隊)を先頭に選鋒隊大木津へ進軍、【奇日】では賊軍数百人とする。諸隊は、奇兵隊銃隊二隊・小隊二隊・砲隊(奇兵隊参謀三好軍太郎、第三銃隊司令久我四郎・杉山荘一郎、砲隊長三浦梧楼等)約一五〇人応戦か。
◇【正俗】大田川上奇兵隊請場、賊兵三百人余り襲来り、先手として角力隊荻野隊其外八ツ時(一四時)より暮合迄接戦、村上謙蔵、駒井小源太、長井竹次郎若稲荷其外討取、双方手負討死数多有之、賊兵川上の民家拾壱軒焼失之
◇【絵聞】一、一手八ツ之上刻(一四時)より暮相迄大田村之内大木津ト申所より戦争始り川上ト申所迄押寄せ戦励敷、此手力士隊先陣ト〆続而撰鋒隊押出シ諸隊ハ至而小勢ニ而既ニ危く相見候所諸隊之遊撃幣振坂へ駈付坂上より野戦炮数発打下シニ付是ニ力を得終ニ守り返シ追討ニ及候、尤大木津より川上迄打引ニ致候趣ハ地雷ノ策ト申説も有之候事
一、大田村之内川上口殿ケ浴ト申所人家七軒焼失、是亦撰鋒隊より火を掛ケ候由ニ相聞へ候事
一、撰鋒隊討死大木津ニ而六人名前不相知、力士隊一人稲荷山勝蔵、
◇【回天】奇兵隊第二銃隊長湯浅祥之助、伍長鳥尾小弥太・山田鵬介(輔)・南野一郎・滋野謙太郎などが幣振坂から急襲。八幡隊、南園隊、奇兵隊槍隊・第一銃隊が救援に駆けつけ勝利。大木津まで追撃する
◆【諸日】では殿ケ浴の農家七軒焼失とあり、
【正俗】では民家十一軒焼失とある
【始末】では、戦役で焼失した家屋十四軒を補償しており、殿ケ浴では七軒であることが分かる。
◇【懐旧】予は銃声の漸次諸隊本営に近づくを以て狙撃兵を率て出づれは、各隊長は方々に声の限りに「進め進め」
◆【諸日】では、先鋒兵十一人即死、諸隊刀禰村で三人とする。諸隊は、萩政府軍の戦死者二名の首を新町大橋詰にさらし、新井手原に先鋒隊兵合葬之墓を建立
◎ 金麗社(大田天神)で戦勝祈願を行っていた重枝宮司の横を弾丸が通過したという(※一時は荒神山麓の新井手原まで退却。【回天】では、渓谷に近づくとし、最後の屈曲点を繞りとある)。
◇【回天】一〇日夜 大田天神の神前に、諸隊幹部が決死の覚悟で髻を切り戦勝祈願す。
※この髪は、戦時中まで存在していたようであるが、戦後の占領下で紛失したと言われている。
◆【諸日】 十一日 諸隊本陣を勘場(美祢郡代官所)へ移す。
◆【奇日】我軍ハ戦労れたる故、御楯隊と入替り一応引取候事
十二日 粟屋帯刀ヘ送る諸隊之戦書を上梓致し、防長内へ充満為致候事(木版印刷して配布)
◎ 吉敷・秋吉方面の動勢
吉敷方面
◇【回天】御楯隊大田市之進(御堀耕助)山田市之允・駒井政五郎・野村靖之助等隊兵若干(約五〇人か)率いて七日小郡に入り、林勇蔵等から金穀軍夫を約し、八日、山田は代官市川文作を連れて大田に帰る
◆【林日】御楯隊五拾人程、未明に勘場来る、終日駆引き、夜何五ツ時(二〇時)銀三十五貫目を代官・算用方から貸付。(札銀三五貫)
◆【林日】お代官様より、勇蔵へこれまでの風義差し替え候段、仰せ付け候
◇八日 小郡代官所地下役人(庄屋)二八人が、大田へ軍夫派遣の援助を決する
◇一〇日〜 吉敷郡の軍夫千二百名が大田へ向かう。(道を補修しながら兵糧米三八六石運搬)
◆【諸日】小郡宰判・舟木宰判三郡より人夫一千七百人十五日十六日早朝迄ニ大田ヘ来ル事、更ニたれも其沙汰知人なし、決而諸隊之手配と懸夫皆々思ふなり
◇【沸騰】 其後諸隊之者三田尻其外大嶋郡辺モ手配リ致シ農兵相募リ御蔵米取出シ日々強勢相成候ヨシ
◎逸話D(温湯重枝敏太郎氏の伝承話)…吉敷郡の農家の二男・三男が大勢温湯・田津に詰めかけ、民家を宿営地としたので、民家の当主達は親戚の家に行くか、行く当てがない者は家の傍に畳を三角屋根にして囲い、仮宿したといわれる。特に、妊婦は近隣の親戚の家にしばらく宿泊したといわれ、温湯一帯は後方支援の吉敷郡・厚狭郡の若者でごった返したらしい。(文献14))
◇【回天】九日、吉富藤表絵・櫻井慎平・佐藤新右衛門・杉山孝太郎・長松文輔・北川清助・秋本新蔵等が長壽寺に集い、十一日には井上聞多を総督に担ぎ、常栄寺に数百人を集める。来島又兵衛嗣子亀之進が参加する(聞多は妹婿の亀之進宅で看護を受けていたが、兄五郎三郎家に監禁中)
◇【奇日】十一日、萩政府軍が長登に数百人押し寄せ、奇兵・八幡・南園・膺懲隊が応戦し小規模な戦い。奇兵隊疲れ、御楯隊(大田慰留組)と守備交代。
◇【回天】十二日、御楯隊大田市之進等、諸隊からの要請で大田に戻る。
秋吉方面
◇【回天】 児玉若狭軍は、一〇日正明市を発し嘉万村へ、十一日に岩永水田に進軍するが、萩帰還を命ぜられ赤村植山へ迂回する。
◆【諸日】児玉若狭殿六百騎ばかり、三隅から嘉萬村に出、それより綾木村九瀬原の領地へ出陣の計画であったが、知行地の百姓からとても勝利なしの注進があり、秋吉宿に引き返す。水田の山内山三郎宅に一宿し、器械を預け、台山道を通り赤村植山に本陣を置く。一宿して青景村へ進軍し、三隅へ帰陣。
◇【絵聞】同晩(一〇日)児玉若狭一手前大津より嘉万市宿陣、翌十一日秋吉宿押出シ岩永村之内水田と申所へ宿陣、十二日同所出立ニ而秋吉宿より台山通押出シ台山中程ニ而諸隊ト出合小々炮発有之、夫より其夜赤村罷越宿陣、十三日青景村引越宿陣之事
一、十一日秋吉宿ニ而山崎熊之允同士打即死、飯尾与十郎乱気手負之事
一、同日(一二日)嘉万村佐々部又右衛門知行処百姓弐人嘉万秋吉境瀬戸原ト申所ヘ遠見ト〆罷出居候所、遊撃軍斥候ニ出合一人手疵を負一人被相捕隊中へ連帰り打擲せしめ候事
◎逸話E(秋吉梅月氏の祖母の話)…瀬戸原を通過する折、秋吉台上から石を落として通過を妨げる話を地元農民が言っていた。祖母の妹が綾木の嫁ぎ先(士族)から慌てて帰ってきて、父が奇兵隊に協力していたので、驚いて顔色を変えた。(文献6))
◆【諸日】十三日 下関から遊撃軍一六〇〇騎ばかり秋吉宿に着く。水田の山内家等に預けてあった児玉若狭軍の器械・火薬を分捕り大田へ運ぶ。大田へ山口の御楯隊町兵農兵六〇〇余騎集まる
◎正月一四日:呑水垰の激戦(五ツ時〔八時〕〜夕七ツ時)
◆【奇日】朝小雨、五時(八時)比ヨリ長登村ヘ賊軍攻寄せ、八幡・御楯・膺懲・奇兵・南園、呑水血戦、巳ノ刻(一〇時)より未ノ刻(一四時)ニ至ル、勝敗未タ決セス、我一番小隊第ニ銃隊間道ヨリ中央ヲ衝ク、依て賊大敗すと云
◇【諸日】 朝五ツ時(八時)より、大田赤坂(呑水垰)へ先鋒隊凡そ五・六〇〇騎が長登より押し寄せる。奇兵隊八〇余騎にて九ツ時(一二時)頃より合戦。呑水垰に地雷を仕掛け赤坂堤の土手を盾にして銃撃戦。遊撃軍(南園隊の誤り)沓掛山(小中山の誤り)の腰を廻り、呑水の谷頭へ出て陣貝を吹き、陣鼓を打ち総勢三〇人で驚かす。先鋒兵おおいに驚き、ことごとく赤村まで退却
◇【正俗】 十四日風雨烈敷、長登膺懲隊受場江賊兵押寄、大キに合戦し、大田口堤土手之上八幡隊請場辺押来り、朝四ツ時(十時)前より夕七ツ時(一六時)迄片時茂止事無之、赤川敬三覆面頭巾高木履傘ニて指揮ス、賊兵怒り無二無三に押寄候ニ付、奇兵隊より援ノ兵として横合より不意ニ打入、賊兵四人即時討とる所に、賊方敗軍ニおよび周章して大崩ニ相成、首六ツ討取、
◇【絵聞】一、赤村宿陣之粟屋帯刀一手撰鋒隊其外早朝より押出シ絵堂宿より一手ニ分レ一手撰鋒隊粟屋勢共長登より大田村之内呑水ト申所迄押寄せ戦励鋪双方討死手負数多有之哉ニ相聞へ候事
一、呑水ニ而撰鋒隊之手負数多之次第ハ地雷火野戦炮之破裂丸ニ而痛有之哉ニ相聞へ候事
一、諸隊小中山下り幸ケ峠堤を楯ニ取、大小銃ニ而戦鋒隊方同山麓青杉黄茅或ハ道杉等楯ト〆双方いとみ合唯雄之争ひ候所諸隊之内大小津口糸谷より押出シ炮発、一手ハ同山絶頂より打下シ五ツ時(八時)より八ツ(一二時)過迄之合戦、撰鋒隊死人手負多く終ニ赤村之内、宮ノ馬場帰陣 干時遊撃軍秋吉駅より押出シ台山通水溜りを越エ呑水頭胡麻畠ト申所エ押下り処、撰鋒隊最早引陣ニ付長登迄追駈直様大田駅宿陣之事
一、大田駅出夫之内長田之者二人真名村之者壱人手負之事 (略)
一、児玉一手之戦鋒隊青景村より秋吉台中程へ押出候所遊撃軍ニ出合炮発、小川留之助討死之事
一、大田村之内、川上と申所へ諸隊地雷火をフセ候由是を流さんため赤村両堤を切明ケ候得共、其詮無之其節地下人壱人怪我せしめ候事
◇ 守備隊の膺懲隊(赤川啓三四〇人)は七時ごろから後退し、一〇時頃、呑水で八幡隊(堀真五郎六〇人)と合流【世に棲む】。
◇【回天】大平堤(赤坂堤)土手に布陣し射撃するも、その内、荻野隊が丘の上から下射して南軍(諸隊)不利となる。
◇【回天】一二時頃、南園隊佐々木男也が駆けつけ、手勢(三〇人)で小中山へ登り、高所から攻撃したので、荻野隊陣形乱れる。
◇【回天】この頃、大木津から糸谷を通り、奇兵隊一番小隊第二銃隊隊長湯浅祥之助、押伍三好六郎、伍長
鳥尾小弥太・山田鵬介など、側面を攻撃する。
◇【回天】一四時頃、雨で萩政府軍の火縄銃が役立たずとなり、荻野隊が後退を始める。
◇【懐旧】大に撃ちて敵兵を破り之を走らせたりと雖も我寡兵の為め之を追撃することは能はず、若し十分の戦闘力ありしならば此両日の戦には盡く敵兵を残滅すべきに寡兵の為め追撃し能はざりしは遺憾の至りなり、是より先き高杉は予に書束を寄せて我隊も近日進撃と決したれば東か北か南か西か何れの地へか向て攻撃すべしと云へり其追書に「わしとおまへは焼山かづら、うらは切れても根はきれぬ」とあり此れは去冬長府に於て高杉と戦略を異にし抗議の末遂に訣別したるを以て此歌謡ありしなり此日に至り高杉は遊撃隊を率て馬関より来会し又御楯隊も小郡山口より帰り会せるに由りて大に勢力を得たり
◇【回天】萩政府軍の別働隊:力士隊・荻野隊の一部が大木津に出るも、交戦ならず。
◇【回天】一四日、遊撃隊が吉田より進軍、秋吉台下で児玉軍と遭遇し銃戦、胡麻畑に至って戦が終わっているので、大田へ入る。
◇【閉居】 帯刀ノ勢ハ千二百人ト云フ 大田村ニハ山形狂介奇兵隊三百人引テ控ヘタリ…(略)…遊撃隊馬関東香寺ヲ出立スル、月夜吉田村ニテ宿リ十三日四郎ケ原村泊ス 十四日未明大雨是ヨリ秋芳臺ヨリ大雨登ナルヲ不意ナラントシ山上ヘ登リ長登村ノ入口ヲ差シテ進ミ入ル 己ニ如此トナリ夕方土橋まて押シ入ル 是ヨリ引上ケテ大田村ニ止ム、十五日休ヲヒ十六日大雨雪ナルヲ見込シテ赤村ノ屯所ヘヲシ入ル、
◇【回天】 一四日夜、吉冨簡一が井上聞多の案により大田へ慰労、一五日朝籠で到着。高杉・山県の案で佐々並守備を考え、激戦に慣れた南園隊佐々木男也五〇名山口へ転陣。一六日佐々並へ進軍。
◇【諸日】一五日呑水の向うの杉木の本に先鋒隊士五人を葬り、其の外地下人が三人を埋葬。先鋒隊合葬墓と記す。地元の農夫は是皆正義の者と思うなり
◎逸話F(松原の田中四郎氏の母=友永竹田家出身)…実家が諸隊の陣所となり、大砲は大田川河畔から呑水に向けて撃たれ、壮絶を極めた。また、緋縅の鎧を着けた武士が銃弾に倒れ落馬した。陣所では、隊士の一人が上官に反抗して射殺された。諸隊は、萩政府軍の戦死者の男根を切り、串刺しにして呑水垰に並べていたということである。(文献8))
◆ 萩政府軍は香花料等を定める。死者=諸士十両、足軽五両、中間小者銀百五十目。重傷者=銀五百目、軽傷者=銀三百目【回天】。
◇ 諸隊は、高杉の指揮で一六日総攻撃を決定。
◆【林日】十四日 秋本次郎介、神兵衛、少蔵、大田へ差掛才料として参る、夜九ツ時(〇時)帰る。
◆【林日】十五日 八ツ時(一四時)孫惣山口より来る、人夫八十人・馬五二十疋差出しの用状来る、人夫千人諸村へ割り当てる、部坂治兵衛・徳田小三郎・小野恒太郎・原田清介・目代清作・手子孫惣・多吉大田へ参る。人馬は明木引っ越しに入用殿事。
◎正月一六日夜:赤村の戦い(暮六ツ時=一八時〜八ツ時=二時)
◇【回天】 諸隊から荻野隊へ味方を促す書簡を送達。応答なし
◇【回天】 正岸寺の荻野隊を夜襲。横野垰・立石・松原の三方から攻撃。高杉・伊藤・石川が遊撃隊を率いて中央から猛進する。
◆【奇日】十六日、敵軍赤村ニ屯居候処、我軍夜ニ入襲之、賊等大敗走、討取敵十数首、我遊撃軍中死者有之、分捕甚多し、「御楯隊玉木彦助手負」
◇【正俗】十六日遊撃軍一手并諸隊援兵ニて賊兵之陣処赤邑江押寄、暮六ツ時(一八時)より八ツ時(二時)
まで廻戦ス、敗北器械不残分捕、賊の討死榎本鉄蔵・山県清馬其外手負死人多し
◆【諸日】薄暮より、赤村正岸寺先鋒隊の陣所へ夜討志し、遊撃軍先陣、諸隊左右に分かれ、植山道、絵堂口へ。遊撃軍中筋から灯火炎々として押し寄せ、左右は伏兵で暗夜の中大声にて押し寄せる。赤の陣所ことごとく退却。先鋒隊の器械火薬その他野戦砲六挺、ゲーベル筒、ミニエール筒、十匁筒、六匁筒以上百五十挺余、翌日小筒大銃掘り出して分捕る。先鋒隊一三〇〇人即死手負い数知れず。諸隊無難、遊撃軍即死二人、翌日夜大田村狐山に葬る
◇【絵聞】一、諸隊夕七ツ半時(一七時)より大田駅出立六ツ半時(一九時)絵堂より赤村へ之出口松原ト申所并横野垰立石三ケ所より大小銃荻野隊陣屋正岸寺を目掛ケ打懸ケ双方打合励敷立石人家へも数発打掛ケ荻野隊弾薬尽キ終ニ其場引取木間通引陣之事 (略)
一、撰鋒隊ハ赤村堤土手迄押出候得者、其余ハ進不申由相聞へ候、尤炮発之儀も無之哉ニ相聞へ候事
一、此戦凡一時余ニ而粟屋手勢撰鋒隊其外順々当島宰判木間辺迄引陣之事
一、赤村人夫之者壱人炮のため手疵を負候事
一、同村之内佐山撰鋒隊宿へ諸隊より炮発之事 (略)
一、同日青景村宿陣之児玉若狭一手、前大津宗頭迄引陣之事 (略)
一、十二日小郡宰判農兵福島平吉ト申者、荻野隊大田へ探索ト〆罷越候処、彼地ニて被相捕十七日斬首之事
一、十四日夜半後法満寺ト申所ニ而膺懲隊之内山縣何某ト申者不法有之隊中より害之候事
◆ 萩政府軍は各民家に宿営していたので、惨劇が繰り返される。
◎逸話G(松原田中氏の話) …これに遭遇した某氏は天井裏から惨劇を見てテンカンになった。撰鋒隊士山県清馬は闇夜の中惨殺。(文献7))
◆ 荻野隊は木間に退き、粟屋・選鋒隊は明木へ敗走する。
◎大田・絵堂戦の戦後:正月一七日〜
◇ 一七日 山口の鴻城軍が佐々並の俗論党を破る【回天】。
◆【林日】十七日 天気、寒風烈敷、昨日千人美祢郡へ出て今もって帰らず、百人程差出すようにとの事
◆【諸日】一八日 摂取した器械・長持などの様々な道具を、三郡の人夫が残らず山口へ運ぶ
◆【林日】十八日 天気 寒さ強 夜七ツ時(四時)より、大田より人夫六百人馬百疋二度目の要望来る。
◆【林日】十九日 小野恒太郎ほか人夫八百人大田へ九ツ時(十二時)より出張、銀二貫目持参。
◆【奇日】一九日 清末侯の命令で坂本力二が大田に鎮静に来る。
◆【諸日】一九日夜五ツ時(二〇時)頃から、大田の諸隊は山口へ転陣。松明の灯明行軍が延々三里に及び、誠に威勢が良い
◆【諸日】二〇日、天気吉、藤井重兵衛は、大田の病院・宿営地に心付けをし、器械の後始末を行う。
〇 二五日 明木の萩政府軍が萩に撤退。
◆【諸日】二六日 遊撃軍一三人が見廻りで大田に来る。
〇 二八日 萩沖に停泊の軍艦癸伊丸が空砲威嚇し、城下騒然となり、鎮静会議員の建白で藩政府員の交代。
◆【諸日】二九日 遊撃軍一六〇名が大田の守備に着く。二月五日には山口へ帰陣。
〇二月二日 諸隊が萩城下への進軍を中止する
〇二月十一日 萩政府の使者、鎮静会議員香川半介・冷泉五郎・桜木三木三が山口からの帰途、明木で暗殺。
〇二月十五日 諸隊が萩城下を取り囲む、椋梨藤太等十二人が萩を脱出。
小田村伊之助等正義派諸士が恩赦で野山獄を出る。
〇二月二十二〜二十四日 藩主毛利敬親が祖霊社臨時大祭を執行して、藩内の鎮定を行う。
〇二月二十七日 敬親が明木・絵堂の戦跡を巡視し、大田で村民を慰労し、翌日山口へ入る。
〇三月二十三日 長州藩の方針を「武備恭順」とする。
◆【諸日】四月中旬頃 中山より選鋒隊士の遺体三体出る。形崩れ甚だ見苦し
〇 参考文献一覧
1)小泉喜代一『大田・絵堂戦史』一九四四年。山口県新聞社 一九七五年頃復刻。
2)三坂圭治「明治維新への道 大田絵堂の戦い」一九六五年五月、美東町発行、一九八五年三月冊子復刻。
阿武孝太郎「大田・絵堂の戦い」『美東町史』一九七四年。『美東町史通史編』二〇〇四年十一月。
3)大佛次郎著『天皇の世紀』6 奇兵隊、昭和四二年一月から朝日新聞連載。一九七三年朝日新聞社刊行。
4)司馬遼太郎著『世に棲む日日』(四)、文春文庫、一九七五年。
5)西日本新聞連載「維新の夜明けー大田絵堂戦跡めぐりー」昭和四一年。取材執筆は阿座上親章氏。
6)梅月精治「奇兵隊通過の際の秋吉の動向」『秋芳町地方文化研究』六号、一九七〇年。
7)粟屋 皓「絵堂戦争における萩藩士山県清馬の最期」『温故知新』四号、一九七七年。
8)池田善文「大田絵堂戦役秘話」『温故知新』四号、一九七七年。
9)安田精男「遊撃隊士・安田宗直と大田絵堂戦」『温故知新』九号、一九八二年。
10)土屋貞夫「大田絵堂戦」『温故知新』一一号、一九八四年。
11)吉永保義「諸隊追討略日記から見た大田絵堂戦役跡」『温故知新』一二号、一九八五年。
12)都野 亀「毛利藩内訌・絵堂及び正岸寺原戦と提灯松の由来」『温故知新』一二号、一九八五年
13)宮地佐一郎『中岡慎太郎全集』一九九一年、「海西雑記」を収録。
14)重枝敏太郎「大田・絵堂戦を詠む」『温故知新』三〇号、二〇〇三年。
15)池田善文「検証:大田・絵堂の記録と逸話」『温故知新』三七号・三九号、二〇一〇年・二〇一二年。
16)土屋貞夫「大田絵堂戦の舞台裏」『温故知新』四〇号、二〇一三年六月、
17)三宅紹宣「長州藩元治の内戦の研究」『山口県史研究』二二号、二〇一四年、
18)池田善文「大田・絵堂戦役百五十周年記念事業の概要と新事実」『温故知新』四二号、二〇一五年。
※『温故知新』は美東町文化研究会の機関誌。